Sunday, February 21, 2010

ミサの日本語訳

日本は無関係?

2006/1/14

2001年に公布された典礼秘跡聖省の教令『Liturgiam authenticam』について以前お話ししたのを覚えておられるだろうか。


第2バチカン公会議は、典礼にラテン語を使い続けるべきこと、典礼音楽ではグレゴリオ聖歌が首位を占めることを、改めて宣言した。(意外ですか? 本当ですよ、「典礼憲章」に書いてあるんです。)
同時に、従来より広範囲に各国語の使用を認め、たとえば朗読や共同祈願などでは国語も使用できる、と基準を示した。
これが、知られざる「第2バチカン公会議の精神」というわけ。

ところが、その「公会議の精神」の名のもとに、全く違ったことが宣伝され推進されてきたのは、現状を見ればお分かりになるとおり。

まるで、ラテン語は廃止され、それぞれの国でその国の言語を使うのが「良いこと」で「公会議後の方針」であるかのように誤解されている。公会議の定めた基準はどこへやら、ミサの始めから終わりまで国語だけを使うのが普通になっている国も多い。
それとて原文(ラテン語)を正しく翻訳していればまだしもなのだが、「インカルチュレーション(それぞれの文化的背景を尊重しながらキリスト教を根付かせること)」と称して勝手に文言を削除したり、訳を全く変えてしまったりという逸脱が横行しているらしい。


このような事態に対して聖庁が公布したのが、この『リトゥルジアム・アウテンティカム』というわけだ。その事情を反映してか、冒頭から厳しい現状認識が述べられている。


特定の国語訳における省略や誤訳は、本来実現されるべきであった(本当の)インカルチュレーションの進歩を妨害してきた。
そのために、教会は、より完全で、より健全で、より正統な刷新を行うための基礎を築くことができずにいるのである。 (第6項)


インカルチュレーションを目指して各国で行われている典礼の「刷新」は、むしろインカルチュレーションに反しているというのである。そして、各国は試行錯誤して典礼を改変しているが、実際には本当の刷新のスタートラインにも立てていない、と指摘している。これは痛烈な批判だ。

さて、日本でこの教令が出版されなかったということは、非難されている「いくつかの特定の国語訳」に日本は含まれない、と日本の教会当局が判断したということなのだろうか。
しかし、果たして日本の典礼は無関係で済まされるのだろうか??


試みに第56項を見てみよう。ここにはたった2点ではあるが具体例が述べられている。


古代教会の全体あるいは多くの部分から引き継がれてきた遺産に属する特定の表現は、(中略)、できる限り文字通りに翻訳することによって尊重されねばならない。たとえば、「Et cum spiritu tuo」という会衆の応答の言葉や、ミサ中の回心の祈りにおける「mea culpa, mea culpa, mea maxima culpa」という表現などである。


2点とも、その翻訳が大きな論点となっている箇所だ。教会は、これらの言葉の重要性を鑑みて、「文字通りに」翻訳するよう求めている。少し詳細に見てみよう。


「Et cum spiritu tuo」というのは、「主は皆さんとともに」などのような言葉に対する応答である。今の日本では、「また司祭とともに」と訳されている。

「et」は英語の「and」に相当する。日本語で「また」と訳して差支えないだろう。
「cum」は英語だと「with」、つまり「~とともに」という意味。
「spiritu」は「spiritus」の奪格。「霊」とか「霊魂」といったところ。
「tuo」は「あなたの」「君の」という意味である。

あれあれ? どこから「司祭とともに」なんて訳が出てきたんだろう??
ちなみに、今では捨て去られた文語体の祈祷書では、この言葉を「また汝の霊と共に在(いま)さんことを」とか「また、あなたの霊とともに」と訳している。これなら逐語訳といえる。


「mea culpa, mea culpa, mea maxima culpa」は、「回心の祈り」の一部。「全能の神と、兄弟の皆さんに告白します・・・」で始まる、あの祈りである。
「mea」は「私の」、「culpa」は「過ち」、「maxima」は「最大の」という意味だから、翻訳すると「我が過ち、我が過ち、我がいと大いなる過ち」ということになる。伝統的に、この部分は三度胸を打ちながら唱えることになっている(痛悔を表現する聖書的な仕草)。

・・・と言うと、「えっ、何それ? 聞いたことないよ」と思う方も多いのではなかろうか。そうなのだ、日本ではこの部分は誤訳どころか完全に削除されてしまっているのだ。
日本では、「思い、ことば、行い、怠りによって、たびたび罪を犯しました」と言った後、すぐに「聖母マリア、すべての天使と聖人・・・」と続けてしまうが、本当はその間に「これは私の過ち・・・」が入るはずなのである。

「日本人にはキリスト教なんてなじまないから、こんな極めて聖書的(中東的?)な表現は削ってしまった方が受け容れやすいだろう」とでもお考えなのだろうか?
しかし、そういうやり方のことを世間一般では「水増しされた信仰」と呼んでいるのではなかろうか。そして教皇様は、このような「省略」こそが「インカルチュレーションを妨げる」ものとおっしゃったのではないだろうか?


以上たった2例をみるだけでも、教令『リトゥルジアム・アウテンティカム』は日本の典礼に関しても無視することのできない指摘をしていると言えるだろう。


最後に言っておくが、私は、日本の教会当局に対して式文を改正するよう指図する気なぞ毛頭ないし、そんな権限も資格もない。ただ、一人の平信徒として、ローマの規定通りの典礼に与りたいと望む権利くらいはあるはずだ。(2004年の典礼秘跡聖省指針『Redemptionis sacramentum』では、典礼上の逸脱に関して裁治権者に苦情申し立てをする権利さえ保障されている!)

つまり、こういうことだ。
アメリカ人に日本の寿司は口に合わないといって、海苔をレタスに代え、刺身をアボカドに代え、ワサビ抜きにするならそれもいいけど、それは寿司じゃなくてSushi、カリフォルニアロール(それはそれは美味しいんですけどね)とか何かだろ、それはまた別物だろ、と思ってしまうわけである、寿司好きとしては。(なんのこっちゃい・・・)


典礼秘跡聖省・教令『Liturgiam authenticam』についてはこちら
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/17608940.html


日本の典礼の他の事例についてはこちら
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/11599472.html

コメント(3)
初めまして、こんにちは。自分はクリスチャンではありませんが、クラシック音楽が好きなことから、何度かカトリック教会を訪問したことがある者です。カトリックのミサやその他の「式典」(と言うのでしょうか?)などから、古きよき時代の習慣等が削除されてしまって(特に日本では)、とてもガッカリしています。確かに、誰も分からないラテン語でミサを挙げてもしようがないかも知れませんが、あれはあれで味わいや趣があって、個人的にはラテン語大好きなんですけどね。あと、思ってたより「音楽」が重視されていないように(自分には)思えて、それもガッカリした部分でした。日本の片田舎の教会でモーツァルトのミサ曲を・・・は言いませんけど(笑)、もうちょっと期待してしました、正直。こちらのブログでは、カトリックのことについて色々知ることが出来て、とても参考になっています。また時々のぞきに来ます。長文で失礼しました。

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2007/3/4(日) 午後 3:52 [ ボタン道路 ]

初めまして、コメントありがとうございます。ラテン語大好きとは奇特な方ですね。 カトリックには読誦ミサ(歌わないミサ)というのもあり、必ずしも常に音楽を伴うわけではないですが、日本の典礼音楽にガッカリというのはご指摘の通りです。
2007/3/4(日) 午後 8:26 [ agnus_d_vir ]

日本で与れる最も荘厳な、かつ数少ないマトモなミサの一つが、毎年10月に東京カテドラルであります。カトリックアクション同志会が主催する「荘厳司教ミサ」です。ポリフォニーではありませんが(笑)グレゴリオ聖歌を歌うラテン語のミサです。ご参考まで。
2007/3/4(日) 午後 8:31 [ agnus_d_vir ]


http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/22660590.html


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ミサ聖祭の中で、「スルスム・コルダSursum corda」という言葉で始まる、司祭と会衆の応答があります。毎回唱えるのでカトリックの方はご存知でしょう。

司祭 Sursum corda.(心を挙げよ)
会衆 Habemus ad Dominum.(我ら心を主に向け奉る)
司祭 Gratias agamus Domino Deo nostro.(我らの主なる天主に感謝し奉らん)
会衆 Dignum et iustum est.(それはふさわしく正しいことである)


典礼の中で、私たちは心を天のいと高きところにまします神に向けるわけです。

その典礼(聖なるもの)を、日常の「世俗の」レベルに引き落としてみたところで、自分たちが聖なるものになるのではないでしょうに。


日本のカトリック信徒の全員が、今のベタベタした口語文の典礼を歓迎してるはずはないと思うんですよね。
いつの日か、日本でも「荘厳な」という形容詞の似合うごミサが立てられるようになればいいなあと思っています。

(教会の規定に従って、説教など以外は全てラテン語のミサにすれば済むだけの話ではあるんですけどね!)




<おまけ>

「スルスム・コルダ」は、今の日本語訳では、

司祭 心をこめて神を仰ぎ
会衆 賛美と感謝をささげましょう

となっています。
誤訳と省略がされている上に、会衆の唱えるべきところを司祭が、司祭の唱えるべきところを会衆が唱えるという混乱した応答になってしまっています。
変な感じですね・・・

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跪いてから立ち上がり、パテナの上から御聖体をとり、パテナの上に奉持し、

Panem caelestem accipiam, et nomem Domini invocabo. 私は、天のパンを受け、主の御名を乞い願う。
侍者は、司祭がDomine, non sum dignusを唱える時、それに合わせて三度鈴を鳴す。左手の親指と人差し指で御聖体を持ち、残りの指でパテナを持って、右手で胸を打ちながら、小声で唱える。
Domine, non sum dignus, ut intres sub tectum meum: sed tantum dic verbo, et sanabitur anima mea.
Domine, non sum dignus, ut intres sub tectum meum: sed tantum dic verbo, et sanabitur anima mea.

Domine, non sum dignus, ut intres sub tectum meum: sed tantum dic verbo, et sanabitur anima mea.
主よ、私は主を我が家に迎え奉るに足らぬ者である。ただ一言を語り給え。そうすれば、私の霊魂は癒されるであろう。
主よ、私は主を我が家に迎え奉るに足らぬ者である。ただ一言を語り給え。そうすれば、私の霊魂は癒されるであろう。

主よ、私は主を我が家に迎え奉るに足らぬ者である。ただ一言を語り給え。そうすれば、私の霊魂は癒されるであろう。

司祭はパテナを左手で持ちながら、右手に御聖体を持ち、御聖体で自分に十字架の印をしながら唱える。

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